本記事は、電子書籍『人事・経営陣に知ってほしい エンゲージメントの“真”常識』の新章として書き下ろしたものです(電子書籍には収録されません)。
- 著者荒金泰史
- 価格693円
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目次
- はじめに
- 【第1章】 企業が踊る「エンゲージメント」狂騒曲、注目を集める理由と危性を知る
- 【第2章】従業員満足度と何が違う? エンゲージメントを高めたい企業が陥りやすい「盲点」
- 【第3章】物分かりがよいだけの企業・上司の下ではエンゲージメントは向上しない
- 【第4章】エンゲージメントを高めれば業績は向上するのか?
- 【第5章】人事が経営・現場と足並みをそろえていくために有効なポジショニングとは
- 【第6章】エンゲージメント向上は実のある取り組みでなくてはならない
人的資本開示の義務化とそれに振り回される人事部門
2023年度は「人的資本開示」元年といえる。私が知る多くの企業人事の方々も、その準備や対応に戸惑い、翻弄されていたことが印象的だ。どうしてそのようなことが起きたのか。そもそも、この開示義務が意図する方針とは何だったか。そこから整理していきたい。
2022年8月に内閣官房から公表された「人的資本可視化指針」では、「人的資本への投資は、競合他社に対する参入障壁を高め、競争優位を形成する中核要素であり、成長や企業価値向上に直結する戦略投資である」と記載されている。この主張は至極当然のことのように思える。そもそも企業が採用した人材に対し、一人前になるまで育成したり、働きぶりに応じて給与報酬を与えたりすること自体が、人的資本に対する投資であるはずだ。こうした取り組みが効果的・効率的に行われ、企業経営の成否に健全に寄与していることを示すことに何の難しさがあろうか。
ところが、これが難しいのだ。書籍の中でもこれまでに、企業経営の中で「エンゲージメントを高めればもうかるのか?」といった論点が掲げられやすいことを挙げ、「エンゲージメントが高ければもうかるというほど単純ではないが、エンゲージメントが低い会社が市場を勝ち抜ける可能性は、著しく低い」(第1章)と述べてきた。
また、序文においても、「『ヒト』の心理を定量的・統計的に捉えることで、組織の改善につなげようという試みは、きわめてロジカルで科学的な考え方である。しかし一方で、その対象が『ヒト』であることを忘れてはならない」「対象が『ヒト』であるからこそ、その曖昧さや複雑さを前提として向き合わない限り、実践的な取り組みにはつながらない」と指摘してきた。
人的資本への投資を怠っている会社に、そもそも健全な発展は望むべくもない。一方で、誰から見ても成否が判別できるような投資を行ってさえいれば、いつでも明確なリターンが得られるというほど単純ではないことが、難しさの要因といえる。そのため、この至極単純な命題であるはずの「自社の成長に寄与する人的資本を備えられているかを明示し、自社の人的資本に対する取り組みが企業成長に寄与していることを証明せよ」という命題に答えるのは、非常に難しいことなのである。
こうした難しさを抱えているにもかかわらず、「開示の義務化」というきわめて強いトーンで同活動が展開されていったのは、この取り組みがIR、すなわち「株主の投資判断に必要な情報を、企業が提供していく活動」の一環として主導・展開されてきた色合いが濃いことも要因の1つのように思う。本書では「エンゲージメントを高めれば、会社はもうかるの?」という問いは、本質を突いている一方で、大雑把で危険な問いでもあることを述べてきたが、IRの視点だけ、すなわち財務的な効果・効率性の側面だけをもって、企業の人材に関する取り組みの是非を評価することは同じリスクをはらんでいる。
ただ幸いにして、この取り組みをそのような断定的で一面的なものとして考えている企業はほとんどないように思う。「もうからない≒意味がない人事施策はやめてしまえ」ということではなく、「自社の人材やそれへの投資が、いかに企業活動の発展・成長につながっているかを証明していきたい。そのように自分たちの活動を捉え直したい」という前向きな姿勢を持っている企業・担当者が多いのではないだろうか。起点はIRにあったという点で、ある意味本来的な難しさや複雑さを無視したような開示義務という方針だが、それをきっかけとして、より本質的で合理的な人的資本への投資を目指したいという、人事部門の志を私は積極的に応援したい。