「世界観」を持った対応が必須になる理由
ここまでの政策構造を踏まえて、最も伝えたいことを書きます。
今回の労基法改正を取り巻く政策動向は、個別の制度改正項目への「対応」で処理できる範囲を完全に超えています。AI政策が雇用政策と一体化し、人的資本経営のフレームワークが制度設計の起点に組み込まれ、2040年の就業構造が根底から変わる見通しが示されている、というこの状況に対して、各論の受動的な法令対応を積み上げることでは到底対応になっていません。
従来から筆者は、現在の法令への対応には自社の戦略がまず必要で、そのために“法令を人材戦略の推進材料として、コンセンサス形成の道具として”使うことが欠かせないと発信してきました。しかし、この考え方でも不足が出てきていると思います。必要なのは、政策と社会の方向性を基盤にしたうえで、自社にとっての雇用に関する「世界観」を持つことではないか。この結論に至った経緯を以下に記載します。
調査が示した裁量労働制の成功の鍵「人事制度との一貫性」
今年に入って労基法改正の論点が大きく拡大する中で、法令政策にどう対応すればよいのか。筆者は、この問題意識に基づいて、運営するシンクタンク(iU組織研究機構)と勤怠HRシステムを提供するチームスピリットとの共同で、企業の人事担当者・責任者の方々への大規模な調査を実施しました。「裁量労働制の信頼性は何によって構築されるのか」「柔軟な働き方制度を機能させるための必須の前提は何か」こうした問いを検証するためです。
その結果、「裁量労働制の信頼は、人事評価制度の信頼性と非常に強く相関する」「人事評価制度への信頼性がない会社とある会社で、裁量労働制の運用への信頼度は30倍以上の差がつく」という衝撃の結果が出ました。どれほど先進的な働き方の制度を個別に設計しても、それだけでは意味がない。人事制度から働き方まで包括した全体の一貫性、つまり「この方向に進めばよいのだ」と企業も従業員も信じられる全体の見通しと整合性が、制度信頼の基盤になっているのです[1]。
注
[1]: この調査レポートでは、こうした制度信頼性の構造をデータで示し、企業が個社レベルで何をどう設計すべきかを具体的に提示しています。本稿と併せて参照いただければ、政策全体の構造理解と、自社の制度設計を接続する手がかりになるはずです。
今回の法改正は「規制」ではなく「企業への問いかけ」だと捉える必要があります。「多様な人材の価値を最大限に引き出すために、働き方をどうデザインしますか?」という問いかけです。この問いに応えるには、個別の制度対応ではなく、自社にとっての「世界観」、AI政策・人的資本経営・労働法制を統合的に捉えた、自社の働き方の全体像を持つことが必須です。
10年3段階の改革が問いかけるもの
先の記事でも述べたとおり、日本の雇用政策は過去10年にわたり、3段階の構造的な改革を進めてきました。2017年の働き方改革は「働く条件の底上げ」。2022年の人的資本経営は「投資と可視化」。そして2027年以降の労基法改正は「雇用モデルの解体と再構築」です。
この3段階に一貫しているのは、「全員が一律に働ける前提で、無造作に労働投入量を増やしていく」という高度成長期のレガシーからの脱却です。年齢・性別・雇用形態にかかわらず同じ時間・同じ場所で働くことが「正常」で、成果は投入時間で測る。この前提が長時間労働を常態化させ、多様な人材の参画を阻み、日本企業の人的資本投資を国際的に低い水準にとどめてきました。
AIは「業務の代替」ではなく「企業の存在意義への問い」
そういう中で、AI活用を単に「業務効率化」「人件費削減」として捉えるのは、あまりに視野が狭いと思います。AI基本計画の第4方針が「人間力の向上」を掲げているとおり、問われているのは「AIがある世界で、自社は何のために存在し、人はそこでどのようにいっそう多様で創造的に働くのか」です。
企業活動を、定型的な処理か創造的な判断か、社内の効率化か顧客への価値提供か、短期の業績か長期の組織能力か、といった軸で分解したとき、AIが担える領域と人間にしか担えない領域の境界線が見えてきます。そして、この境界線は企業ごとに異なり、自社が何を競争力の源泉としているかによって、AIの位置付けは根本的に変わります。
「世界観」の創造とは——政策と社会動態の理解を背景に自社の未来の雇用像を設計すること
ここでいう「世界観」とは、抽象的な理念の話ではありません。調査が示したとおり、制度は信頼の上にしか機能しません。そして信頼は、政策の一貫性と、自社の制度設計の整合性の上にしか成り立ちません。
だからこそ、AI政策・人的資本経営・労働法制という3つの政策潮流を統合的に捉えたうえで、「自社はどのような働き方の環境を提供し、どのような価値を生み出す組織であるのか」を経営レベルで言語化すること、これが「雇用に関する世界観の創造」です。
裁量労働制・副業兼業・テレワークを含む働き方制度を、法令対応ではなく経営戦略として再設計する。ここで決定的に重要なのが、前述の調査が示したように、制度を導入するかどうかの判断だけでは不足であることです。まず制度の目的と設計をはっきりさせ明示する。そのうえで、信頼できる労使コミュニケーションの質・制度運用の透明性・健康確保措置の実効性などを同時に設計しなければ、どれほど先進的な制度も機能しません。
並行して、自社の業務・職種を「AI協働」の視点で再定義します。どの業務がAIで代替可能なのか。どの業務が人間の判断力を必要とし、どの業務がAIと人間の協働で新たな価値を生むのか。これはAI協働を採り入れたうえでの、人材版伊藤レポート2.0が掲げる「動的な人材ポートフォリオ」の再構築です。
そして、労務管理とタレントマネジメントを統合します。勤怠データは単なる法令遵守のデータではなく、スキル・エンゲージメント・キャリア履歴と接続した人的資本経営の基盤データへと性質が変わります。この統合はAI活用を前提として設計します。
これらは戦略ということを超え、全体として1つの「世界観」だといえます。少子高齢化が急速に進む多様な世界で、自社の人材はAIが協働しながらどう働きどう成長するのかを考える。法令の確定事項に対応するだけでは世界観を持つことは全くできず、政策の示す社会像と共に自社の未来を設計していく。それが労基法改正に対して必須であり、政策を道具にして、いま着手すべきことではないでしょうか。

