労使コミュニケーションは対立前提から共創設計へ

松井 今度の労基法改正において、労使コミュニケーションを制度的にどう設計するかは非常に難しいテーマです。そもそもフレームワーク自体に多様な考え方があり、正解がない。ですが、働き方がこれだけ多様化・アジャイル化していくならば、現場から多様な意見が出る環境を整えないと、それは本来の意味での多様性ではなくなってしまいます。重要なポイントだと思います。
髙浪 そうですね。ただ、現実はやはり難しい。越境的な人材育成、たとえばグループ内異動、他社協働プロジェクト、副業経験の活用などを進めようとすると、企業横断で経験を積ませるのは理想的ですが、給与水準の違いや人事制度の非連動性、IPの扱いや競業関係など、現実的な障壁がいくつも立ちはだかります。これを突破するには、現場だけでやりきるのは難しい。
松井 そこには労使の関係も影響しています。権利保護が前提になることはもちろん大切ですが、交渉が対立構造の上に成り立ってしまうと、柔軟な制度設計や共同創造的な取り組みが進めづらくなる。
企業によっては、労働組合とは別に委員会を設けて柔軟に対話できる場を整備しているところもあります。特に今のように働き方が多様化する中では、従来の条件交渉だけでは限界があると思うんです。
髙浪 本当にそうですね。DX人材やソフトウェア人材のように、採用も育成も難しいけれど経営戦略上重要な人材に対しては、「説明できる差」としての待遇設計が重要です。報酬水準を上げて人材を呼び込むという戦略が理にかなっていても、感情や組織の一体感への配慮から実行しきれない。たとえば、ジョブ記述書・スキル要件と報酬をひも付ける形で、プロジェクト手当・リテンション手当・成果連動ボーナスなどを設計すれば、“平等ではない”ことを“公平である”こととして説明できます。私自身、戦略を進めるうえでいっしょに進める難しさを感じる場面がありました。
松井 まさにそれが、人的資本経営が掲げる「個別最適化」と、過去の画一的な労働政策のはざまで揺れる現実なのだと思います。まだ多くの企業は、高度経済成長期的な平等主義の延長線上にいるように感じます。
髙浪 労使コミュニケーションの本質は対立ではなく共創にあるはずです。しかしながら、現場では「労使=交渉と妥協」という考えがそれなりに根強く、制度変更や柔軟化の議論になると一気に慎重になる傾向があります。私自身も、制度を動かそうとすると「説明がつかない」「不公平だと言われそうだ」という空気に直面することがあります。
でも、これは“共に価値を生む関係”としての再設計のチャンスでもあります。経営や人事がその前提を変えていく。ここが、法改正を追い風にできるかの分かれ目だと思います。
松井 今回の対談では、働く価値をどう捉えるか、多様な働き方にどう向き合うか、労使のコミュニケーションをどう考えるか、という3つの軸で話をしてきました。改めて思うのは、これらの視点なしに「法律が変わるから対応しなければ」と考えると、本質を見失ってしまうということです。
法令や政策は、あくまで人材戦略のツールにすぎません。本当に大事なのは、それをどう経営や人材戦略につなげるか。法改正前であっても、現時点で会社としてどんな働き方を目指すのかを考え、先に動くことはできます。そこにこれからの労務や組織づくりのヒントがあると思いますね。
髙浪 多くの企業では、法改正があると「法務や人事が対応すればよい」と、現場や経営陣が他人事になりがちです。でも本来は、「この変化をどう自社の強みにできるか」を考えるべきで、そうした視点が抜け落ちてしまっている企業も少なくありませんからね。
松井 強制されたルールには、人は必要最低限しか応じない傾向があるというのは、社会心理学の研究でも示されています。だからこそ、「守らなきゃ」ではなく、「なぜこの改正が行われるのか」を自分事として捉える姿勢が大切なんですよね。
その意味で、法改正の“思想”をどう読み解き、企業戦略と接続していくかが重要です。たとえば、人的資本経営が注目されたとき、多くの企業がコンソーシアムなどで得た知見をもとに改革を進め、自社に合った制度を試行錯誤しながらつくり上げていきました。あのときのように、表面的で終わらせず、一部の取り組みで断絶することなく、法改正を通じた組織変革を考える。その発想が変化をチャンスに変える力になるはずです。
髙浪 漫画『キングダム』の言葉に「“法”とは願い! 国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ!」があります。今度の労基法改正も、働き方をより良くする“願い”の具現化です。人事は遵守で終わらせず、職務・スキル・成果を軸に働き方を再設計し、削減した時間を何に再投資したかをKPIで語る。正規・非正規・外部人材・AIを含むワークフォースを最適化し、労使の対話を対立から共創へ。法改正を起点に経営課題の解決へつなぐ議論を自ら主導する——それが、コンプライアンスで始め価値創造で締める、これからの人事の使命です。
松井 なるほど、法の趣旨ということですね、改めて理解が深くなりました、私も『蒼天航路』という三国志の漫画に出てくる主人公の曹操の 「やらねばならぬことにやりたいことが加わると、心はどんどん自由になっていく」という言葉を思い出しました。義務だけでは何事もなしえないのですが、そこに志がつながったとき、物事はより大きな価値を生み出せるということだと思います。法令も人事施策もそれだけでは義務的なことだが、価値創造ストーリーをつなげて人的資本経営を進めるのが重要だということでしょうか。労基法改正は大きな機会ですから、経営や人事が自らの“やりたい”を重ねることで、創造的に企業と働き方を変化させられるのだと思います。