荒金泰史氏の前連載「経営人事とエンゲージメント再考」も公開中。
営業社員のびっくり退職が大問題になった話
最初に、ある事例を紹介する。
A社で、ある日突然、営業社員Bが退職届を提出した。いわゆる「びっくり退職」である。Bは入社7年目。その前年、全社表彰を受けたばかりで、次世代エースと目されていた人物だ。上司は翌年からBを昇格させたうえで、重要顧客S社を任せるつもりだった。上司と人事はBの退職届を見て仰天し、本社の人事課長が慌てて面談を実施したが、B本人はすでに次のキャリアを固めており、時すでに遅しだった。結果的にさまざまなことが白紙となり、A社営業部門では来期組織体制を再考する事態に陥った。本社人事でも、次世代リーダー候補として期待していた社員が突然退職したことで、大きな問題となった。
最近、この手の「若手社員のびっくり退職」の話をよく耳にするようになった。以前から起きていたことだが、びっくり退職という名前が付いたところを見ると、やはり全体的に増えているのだろう。退職代行サービスが広まっている一因にもなっていると考えられる。
こうしたびっくり退職に対して、人事は何もできないのか。決してそんなことはない。人事が力を発揮できる局面は間違いなくある。具体的に見ていこう。
Bは退職前に2つの「サイン」を発していたが、上司や周囲はそれに気づけなかった
実は、この事例には続きがある。その後、A社の人事が上司や周囲に詳しくヒアリングし、B本人との面談情報と総合して推察したところ、次のようなことが分かったのだ。
最も大きな発見は、Bが退職前に2つの「サイン」を発していたことだ。前年、Bは最終的には全社表彰を受けたが、途中の1ヵ月は体調を崩し、勤怠が不安定になっていた。また同じころ、上司や先輩Cに「パートナーから、仕事と育児のバランスを見直してほしい、と強く言われていて」とこぼしていた。Bの退職の最大の理由は「ワークライフバランスや体調が保てなくなることへの不安」で、その兆候は現れていたのだ。しかし、上司やCはそのサインを見逃していた。気づいていれば、びっくり退職ではなかったはずで、退職を防げた可能性がある。
Bの懸念や不安が強まったのは、S社の存在だ。Bは、自分が近くS社担当になることをうすうす勘づいていた。しかし、その懸念や不安を周囲に打ち明けることはなかった。なぜなら、おそらく上司や先輩Cには理解してもらえないだろうと考えていたからだ。
S社担当は、A社の営業社員にとって登竜門の1つで、出世のためには避けて通れない道だった。ただ、要求が厳しいことでも有名で、以前S社を担当していた上司や現担当の先輩Cは、深夜残業や休日出勤をたびたび繰り返していた。一方で、Bはパートナーから仕事と育児の両立ができるよう、ワークライフバランスを見直してほしいと求められていた。S社を担当すれば、仕事の比重が高まり、ワークライフバランスはますますワークに偏ってしまう。つまり、Bは家庭をとるか仕事を取るかを迫られて、家庭を選んだのだ。
このとき、Bが上司やCにきちんと相談しなかったのは、「この人たちには自分の懸念や不安は分かってもらえない」と感じていたからだと考えられる。上司やCがふだん話すのは、自分たちがS社の厳しい要求に対して、いかに必死の思いで応えてきたかという武勇伝ばかりだった。また、「パートナーから仕事と育児のバランスを見直してほしい、と強く言われていて」とこぼしたときには、上司やCは「そういうものだよ」「男の苦労は男にしかわからない」といった励ましをしただけで、それ以上の相談には乗らなかった。そうしたコミュニケーションの積み重ねで、Bは上司やCには分かってもらえないと感じたのだろう。