「情報の吸い上げ」からの解放――クラウドが起こした最初の革命(2016~2021)
——2015年11月にクラウド人事労務ソフト「SmartHR」がリリースされ、そのわずか3ヵ月後に芹澤さんは入社されました。当時の人事労務の現場は、今とはまったく違う状況にあったのではないでしょうか。
そうですね。2016年当時は、人事労務の現場はまだまだ多くのことが紙やExcelを使った手作業で進められていました。
大企業ではすでにシステム化は進んでいましたが、その多くがオンプレミス型。人事部門の専用端末にCD-ROMを入れてインストールし、そのパソコンの前に座らなければ仕事が始まらない。そんなWindowsアプリケーションが一般的でした。一方で、中小企業ではより簡易的なパッケージ製品を使っているケースが多く、スタートアップではそもそもシステムを導入していないことも珍しくありませんでした。
芹澤 雅人(せりざわ まさと)氏
株式会社SmartHR 代表取締役CEO
2016年、SmartHR入社。2017年にVPoEに就任、開発業務のほか、エンジニアチームのビルディングとマネジメントを担当する。2019年以降、CTOとしてプロダクト開発・運用に関わるチーム全体の最適化やビジネスサイドとの要望調整も担う。2020年取締役に就任。2022年1月より現職。
つまり、現在のように「従業員が自らログインして情報を入力する」という発想自体が、世の中にまだ浸透していなかったんです。従業員の情報を集めるために、入社時には氏名、住所、家族構成などを紙に書いてもらい、担当者がそれをシステムへ「転記」する。その二度手間が、全国のオフィスで当たり前のようにくり返されていました。
——そうした中で、クラウドベースのSmartHRの登場はかなり画期的な存在だったのではないでしょうか。
そうですね。SmartHRでは、従業員1人ひとりにアカウントを発行し、ログインして自分の情報を入力・送信できるようにしました。送信された内容を人事担当者が確認し、そのままデータベースに反映できる仕組みです。しかも、当時はすでにスマートフォンの普及が進んでいたので、従業員が操作しやすい環境が整っていました。
たとえば「年末調整」もその1つです。これまで紙でやり取りしていた書類をWebのアンケート形式で完結できるようにし、専門用語を「家族」や「住んでいる場所」といった日常的な言葉に置き換えることで、誰でも迷わず入力できるようにしました。
この“フレンドリーさ”こそが、当時の人事労務の現場にとって、まさに大きな変革だったと思います。
——とはいえ、当時はクラウドへの不安や機能不足を指摘する声もあったのでは?
おっしゃるとおりです。「大切な個人データをクラウドに預けるなんて大丈夫なのか?」という不安の声は、今よりもずっと大きかったですね。また、当時のSmartHRは入退社手続きと年末調整くらいしかできず、多機能なオンプレミス製品と比べれば「機能が少なすぎて使い物にならない」という反応もありました。
そこで私たちは、まずはクラウドへの抵抗感が極めて少なかったITスタートアップから導入を広げていきました。彼らの多くは人事の専任担当者がおらず、経営者や管理部門が「兼務」で労務を担っていたからです。
専門知識がない中で、複雑な書類の書き方を一から調べ、不安になりながら年金事務所の窓口に並ぶ。実際、私自身も入社当時に全く同じ体験をして、その「専門知識がないゆえの恐怖や重圧」を肌身で実感しました。だからこそ、システムがその不安を代行し、正解を提示してくれることの価値を確信できたんです。
そして、あえて“本丸”とされる給与や勤怠といった領域には踏み込まず、まずは人事労務の基盤となる「データ収集」に注力し、自社の強みとして打ち出し続けました。既存のオンプレミス製品をいきなり置き換えるのではなく、それらをより便利に活用するためのツールとして使ってもらう。そうして現場での信頼を積み重ねながら、少しずつ機能を拡張し、中堅・大企業へと対象を広げていきました。

