法令・政策は「制約」か「イノベーションの機会」か
ドラッカーは「制度の変化は、企業にとって最も予見可能であり、かつ最も軽視されている機会である」と述べています。
法令の変化は、技術革新やマーケットトレンドと比べてはるかに予測しやすいものです。審議会の報告書、中間まとめ、政府の方針文書を読めば、2年後・3年後に何が起きるかが相当の精度で見えます。にもかかわらず、多くの企業は法令の変化を「コスト」として受動的に受け止めるだけです。これはドラッカーの言葉を借りれば「最も確実なイノベーションの機会を捨てている」ことになると思います。
なぜ企業は法令を「負担」としか見ないのか。その原因は構造的なものです。法令は通常、「義務」と「罰則」という形で提示されます。法務部門や人事部門が「専門業務」として法改正に対応し、経営戦略との接続が弱いです。弁護士や社労士もリスク回避を第一義とするアドバイスを行いがちで、「機会」として捉える視点が閉ざされてしまいます。今までの固定的な雇用の構造の中では、「働き方」は型にはまったものであり、そういう中でこの仕組みが強化されてきたのだと筆者は思っています。
しかし、法改正はすべての企業に同時に適用されます。つまり、競合他社も同じ「制約」を受ける。その制約を単に守るだけの企業と、積極的に活用する企業では、差が生まれます。法令対応の「質」が、競争優位の源泉となりうるのです。
筆者がiU組織研究機構で実施した調査では、人事戦略を積極的に推進している層ほど、雇用関連法令の印象が「複雑で面倒」から「戦略的に生かせるツール」へと激変していることが明らかになっています。
法令を機会として捉える企業は実在しており、しかもその認識の転換が人事戦略全体の推進力と相関している。これは偶然ではなく、ドラッカーが論じた「制度変化をイノベーションの機会として読む」力の発現そのものです。

「世界観」の形成——ドラッカー的に定義する
ドラッカーは「イノベーションとは体系的な仕事である」と定義しました。天才的なひらめきではなく、「現実の変化を分析し、機会を体系的に追求すること」。これを今回の文脈に翻訳すれば、労基法大改正・AI政策・人的資本経営という3つの政策変動を体系的に分析し、そこに自社のイノベーションの機会を見出す知的作業が、企業に求められる「世界観」の形成です。
ドラッカーは有名な大著『マネジメント』などでもう1つ重要な指摘をしています。企業にとって最も重要なのは「自分たちの仕事は何か」を定義し続けることであり、その定義は市場と社会の変化によって絶えず問い直されるべきだと。法令・政策の方向性を読むことは、まさにこの「自分たちの仕事は何か」を問い直す契機を得ることです。
また「世界観」とは、この問い直しの結果として言語化されるものです。具体的には、次の問いに自社の言葉で答えることが世界観の形成です。
「AIがある世界で、自社の競争力の源泉は何か」
前稿で論じたように、AIが代替できるのは知識労働の中でも定型的な処理に近い領域です。自社の競争力がそこにあるなら早急な転換が必要であり、問いを立て意味を創造する領域にあるなら、AIはその力を加速する道具になります。
「自社の人材に必要な能力は何であり、それはどう育成するのか」
経産省2040年推計が示す事務職437万人余剰とAI利活用人材340万人不足の構造は、リスキリングが「あれば望ましい」ではなく「成長の必須条件」であることを意味しています。自社の人材にとって、AI時代に伸ばすべき力は何か。この答えは企業ごとに異なります。
「働き方の柔軟化は、自社にとってコストか機会か」
裁量労働制の見直し、副業兼業の柔軟化、テレワーク制度の整備。これらを「対応コスト」と見るか「戦略的な人材確保と活用の機会」と見るかで、設計はまったく異なります。
「制度の信頼性をどう構築するか」
筆者の調査が示したように、柔軟な制度は信頼の上にしか機能しません。労使コミュニケーションの質、制度運用の透明性、健康確保措置の実効性——これらを同時に設計しなければ、どんな先進的な制度も形骸化します。
これらの問いへの回答が統合されたとき、それが自社の「世界観」になります。

