はじめに——なぜ今、ドラッカーなのか
労働基準法(以下、労基法)大改正の論点が拡大し、AI政策や人的資本経営と一体的に検討される局面に入っています。この動向を俯瞰するとき、半世紀以上前に1人の思想家が描いた社会像が現実になりつつあるのではないかと考えています。ピーター・ドラッカーです。
筆者はドラッカーの多くの書籍を愛読してきました。ドラッカーの「知識労働者」論や「知識社会」論は、経営学の教養として語られることが多いと思います。しかし本稿の目的は、エッセーとしてドラッカーを採り上げるのではありません。ドラッカーの概念装置はまさにいま、現実的に使えるときであると筆者は考えています。本稿では、現在進んでいる労働法制の大変革、労基法大改正の論点拡大・AI政策・人的資本経営の進展を読み解く「分析ツール」としてドラッカーを使います。
ドラッカーを経由することで見えてくるのは、今起きている政策変動が「場当たり的な規制の寄せ集め」ではなく、社会の根本構造の変容に対する、遅れた、しかし正しい方向の応答であること、そして経営や人事に関わる方は、ぜひともそれを活かすべきだということです。
ドラッカー「知識労働者」概念の再整理——3つの命題
ドラッカーは1960年代に著した『断絶の時代』から2002年の『ネクスト・ソサエティ』に至るまで、一貫して「知識社会」の到来を論じました。筆者はドラッカーが非常に好きで今まで愛読してきましたが、知識労働者論はやや先行し過ぎた理想論ではないかと思われる部分がありました。
しかし、特にAIが登場し、働き方の多様性が少子高齢化で待ったなしで進む現在、ドラッカーの知識社会・知識労働者という概念の重要性は、かつてないほど高まっているのではないかと思われます。まずドラッカーの「知識労働者」概念を、今回の文脈に即して3つの命題に整理します。
【命題1】知識労働の生産性は、時間ではなく「成果の定義」で決まる
ドラッカーは、次のことを繰り返し指摘しました。
肉体労働では「いかに正しく行うか」が問われるが、知識労働では「何を行うべきか」がまず問われる。知識労働者の生産性は、時間の投入量ではなく、「正しい問いを立て、正しい成果を定義すること」によって決まる。
特に、ドラッカーの『断絶の時代』の12章「知識社会」などで典型的に論じられる部分です。『マネジメント』でもこれを前提として目標管理制度の理想像が論じられています。
たとえば、ある企画担当者が1日8時間デスクに向かい、10本の報告書を書いた。別の担当者は2時間で1本の提案書を書き、その提案が事業の方向を変えた。前者の「生産性」は後者の5倍でしょうか。もちろん違います。しかし、労働時間を基準にした管理制度の下では、前者のほうが「8時間働いた」と記録されます。これがドラッカーが指摘し続けた構造的な問題です。
【命題2】知識労働者は「管理される存在」ではなく「自らを管理する存在」
工場労働者は作業手順に従い、管理者の指示の下で働きます。しかし知識労働者は、自分の専門知識に基づいて「何を、どの順序で、どう行うか」を自ら判断します。ドラッカーはこれを『ネクスト・ソサエティ』で「知識労働者は自分自身のCEOである」と表現しました。『断絶の時代』や『マネジメント』においても知識労働者の行動の基礎として描かれる部分です。
これは自由放任を意味しません。知識労働者は自律的に成果を出す代わりに、自ら目標を設定し、自らの時間を管理し、自らの成果を検証する責任を負います。管理の主体が組織から個人に移行するのです。
そして、この自律の前提には「信頼」があります。組織が個人を信頼し、個人が組織の方向性を信頼する。この相互信頼なしに自律は成り立ちません。
こうした概念や基礎的な信頼性の重要性は、いま最も高まっているのだと思います。後述する労使コミュニケーションの深化や、筆者の調査が示した「制度信頼性」の問題は、まさにドラッカーのこの命題が実務に現れたものだといえます。
【命題3】知識労働者が組織に求めるのは「雇用の安定」ではなく「成長の機会」
ドラッカーは、知識社会における組織と個人の関係は、産業社会のそれとは根本的に異なると述べました。知識労働者にとって、組織は「安定した雇用を提供してくれる場所」ではなく「自分の知識を活用し、成長させてくれる場所」です。組織が成長の機会を提供しなくなれば、知識労働者は去ります。
『断絶の時代』においてドラッカーは、「知識は個人に帰属する。知識労働者は生産手段を自ら所有している」「彼らは組織なしには働けないが、組織もまた彼らなしには機能しない」という相互依存関係の中で、知識労働者が組織にとどまる理由は雇用の安定ではなく「自らの知識を活用し発展させる機会」だと論じています。
知識労働者の知識は特定の組織に帰属しません。知識は本質的にポータブルです。個人が持ち運び、異なる組織で異なる文脈に適用することができる。これは「副業兼業」「人材流動性」「リスキリング」という、まさに今の政策論点そのものです。


