労基法の基本設計と「知識労働者の不在」
では、日本の労働法制はこの「知識労働者」にどう対応してきたのでしょうか。筆者の考えは、明確に一言でいえます。ほとんど対応していません。
労基法は1947年に制定されました。その基本設計は、工場や事業所に一定時間出勤し、指揮命令の下で労働する肉体労働者を想定しています。「労働時間」が管理の基本単位であり、労働時間に比例して成果が出る。この前提が、法の骨格に組み込まれています。
この前提の下では、ドラッカーの3つの命題はすべて法制度と衝突します。知識労働の生産性が時間で決まらないなら、時間管理を基本にした法制度は知識労働者の生産性を正しく評価できない。知識労働者が自らを管理する存在であるなら、指揮命令系統を前提にした「使用者」「労働者」の2項対立は現実と合わない。知識労働者が成長の機会を求めるなら、1社専属を前提にした制度設計は人材の流動性を阻害します。
裁量労働制や高度プロフェッショナル制度は、この衝突への部分的な応答として設けられてきました。しかし、運用上は極めて限定的です。裁量労働制の適用労働者は全体のわずか数パーセントにとどまっています。つまり日本の労働法制は、知識労働者を「例外」として扱い続けてきたのだと思います。
現在、労基法大改正は論点拡大し、裁量労働制や人材育成まで含めて論じられています。このことの本質的な意味は、「例外」を「原則」に転換しようとする試みなのだろうと思います。裁量労働制の対象拡大と要件再整理、テレワーク時のみなし労働時間制、副業兼業の通算見直し。これらはすべて、「知識労働者を前提にした制度設計」への移行を意味します。ドラッカーが半世紀前に必要だと指摘した変化が、ようやく制度レベルで動き始めたのではないでしょうか。

注意が必要なのは、この転換が単に「規制を緩める」話ではないということです。今までも繰り返し発信してきましたが、裁量労働制などまで論点が拡大した「多様な働き方の推進」「労働時間法制の見直し」には、「労使コミュニケーションの深化」によって妥当でより適切になっていく仕組みが内包されています。つまり自由化と、それを適切に管理・牽制する仕組みが一体的に設計されているのです。
ドラッカーが述べた「知識労働者の自律」は、「放任」ではなく「自律と信頼の制度的な裏付け」を必要とするのであり、今回の改正はまさにその裏付けを構築しようとしているのです。

